ログインスタジオに、雨の音が響いていた。もちろん本物ではない。巨大な散水装置から落ちる人工の雨。照明に照らされ、一本一本が銀色に光っている。モニター越しに見れば、美しい。だがその中に立つ久遠ひかるの視界は、もう揺れていた。「本番いきます!」助監督の声。カメラが回る。このシーンは、感情の爆発だった。恋人に裏切られた女性が、雨の中で崩れ落ちる。叫び、泣き、縋る。演技力が剥き出しになる場面。本来なら。久遠ひかるが最も得意とする領域。「……どうして」セリフが始まる。声は出ている。表情も作れている。だが。次の瞬間。遠くで、キィィ……金属が軋むような音がした。ほんの小さな音。スタッフの誰も気づかない。だが、ひかるの体は硬直した。体が小刻みに震え、頭の奥で何かが弾ける。白い光。ブレーキ音。迫ってくる車。動かない足。そして……「あなた、まだ生きてたのね」ひかるの目が見開かれた。心臓が跳ね上がる。呼吸が止まる。視界が歪む。雨が―――。あの日の道路に変わる。「……っ」セリフが消えた。ひかるの口から、次の言葉が出てこない。監督が眉をひそめる。「久遠?」ひかるは動けない。肺が縮む。空気が入らない。指先が震える。—逃げたい。そのとき。視界の端に、白が映った。スタジオの入口。白いワンピース。長い髪。微笑む女。それは、雪城沙羅だった。誰も不思議には思わない。ただの見学者として入っているだけだ。それだけなのに、ひかるの喉が引きつる。沙羅は、ゆっくり口だけ動かした。声は出していない。だが、わかる。「ま・だ・い・き・て・た・の?」次の瞬間。世界が反転した。「カット!!」監督が叫ぶ。ひかるが、その場に崩れ落ちた。スタッフが駆け寄る。「過呼吸だ!」「袋!!」紙袋が押し当てられる。だが呼吸は整わない。涙が止まらず、体が小刻みに震えている。その光景を、沙羅は、静かに見つめていた。近くのスタッフに小声で言う。「かわいそうに………代われるものなら、代わってあげたいわ」完璧な善意の声。誰が疑うだろう。善意のような言葉を放つその女が、一番悪意を持っていると。憐みのような視線を向ける―――だがその目は、冷たい。しばらくして、スタジオの扉が乱暴に開いた。藤崎優だった。
異変は、放送一週間前に起きた。一本の電話が、制作現場の空気を一変させた。最大スポンサーの一社からだった。「今回は降ります」理由は明確だった。――キャスティングトラブル。主演交代を巡る混乱。現場の緊張。そして、SNSでの炎上。企業にとって、番組への愛着よりも優先されるものがある。“リスク”だ。電話を切った瞬間、局内はパニックになった。「どう責任取るんだ!」「だから言っただろう! 主役は雪城沙羅に決まったんだ。今さら……!」編成が荒れ、制作が怒鳴る。広告部の人間は、顔から血の気が引いていた。その誰もが、心の中で同じことを考えていた。――このままでは、本当に番組が飛ぶ。さらに追い打ちをかけるように、ネットニュースが出た。『主演強奪か? 藤崎優、元妻・雪城沙羅を降板させる』コメント欄は、瞬く間に燃え上がった。・「最低な男」・「沙羅の方が格上」・「久遠ひかるってまだ演技できるの?」・「病み上がりだろ」・「現場崩壊するぞ」ひとつひとつの言葉が、刃物のように広がっていく。ひかるがこれを見たら、どう思う?優の胸に、嫌な予感が走った。だが――決断は変わらなかった。「主演は変更しない。久遠ひかるで行く」会議室が静まり返った。誰もが、一瞬言葉を失った。「正気ですか?」制作プロデューサーが、信じられないという顔で言う。「スポンサーが降りたんですよ」「ここで強行したら、本当に番組ごと潰れます」優は、一切表情を変えなかった。胸の奥では、別の感情が激しく渦巻いている。分かっている。自分が何を選ぼうとしているのか。スポンサーを失う可能性もある。番組そのものが失敗する可能性もある。それでも――。ここでひかるを外したら、沙羅に負けたことになる。何より、事故で傷ついたひかるから、もう一度立つ場所まで奪うことになる。それだけは、できなかった。「潰さない。俺が責任を取る」その一言に、反論が止まった。理屈ではない。覚悟だった。だが、現実は甘くない。相手役の真柴涼真のスケジュールは、すでに限界だった。次の映画のクランクインが迫っている。「これ以上延期は無理です」マネージャーの声は冷静だった。「三日後を逃せば、最低でも三ヶ月待ちになります」三ヶ月――。その言葉を聞いた瞬間、優は理解した。三ヶ月も
夜が、静かに街を包んでいた。病室の窓に映るのは、深い群青の空と、無数の光。遠くを走る車のヘッドライトが、窓ガラスに一瞬だけ白い線を描いて消えていく。優はカーテンを半分だけ閉め、ベッドの横に立っていた。規則正しく鳴る心電図の音。小さな寝息。久遠ひかるは眠っている。それだけで、優は何度目か分からない安堵を覚えていた。だが、その表情は事故前とはどこか違っていた。儚い。触れれば消えてしまいそうなほどに。少し前までなら、こんな姿を想像することさえなかった。スクリーンの中で笑い、泣き、怒り、見る者の感情まで動かしてしまう女優。誰よりも強く見える。けれど今は、ベッドの上で静かに眠っている。その姿を見ていると、優の胸の奥に、言葉にできない痛みが広がった。優は椅子へ腰を下ろし、長く息を吐いた。そして気づく。自分が――どれほど張り詰めていたのかに。ひかるが目を覚ますまでの恐怖。沙羅への怒り。事故を防げなかった後悔。もっと早く気づけなかった自分への苛立ち。あらゆる感情が、胸の奥に沈殿している。社長としてなら、感情を切り離して判断できる。冷静に状況を分析し、必要な手を打つ。それが自分の強さだと思っていた。だが。ひかるのことになると、その強さが簡単に崩れてしまう。どれだけ冷静になろうとしても。どれだけ先を読もうとしても。頭の中に最後に残るのは、いつも同じだった。絶対に失いたくない。それだけだった。そのとき。ひかるの指が、微かに動いた。優は反射的に手を取る。温かい。その温もりに触れた瞬間、胸が締めつけられる。生きている。今、ここにいる。それだけでいい。「……優さん……?」目を開けてはいない。夢の中なのだろう。それでも名前を呼ばれた瞬間、視界が揺れた。その声が、五年前の記憶を引きずり出す。あの夜。泣きながら、それでも笑おうとしていた少女。自分がどれほど傷ついているのかも隠して、最後まで相手を気遣っていた。「優さんは……私が居なくても大丈夫です……」震える声で、そう言った。あの言葉を思い出すたび、優の胸は今でも痛む。違う。大丈夫なわけがない。あの頃の自分は、そう言えなかった。言ってしまえば、ひかるをもっと苦しめると思った。だから黙った。そして、黙ったまま失った。五年前の後悔は、今
朝の光が、静かに病室へ差し込んでいた。夜の冷たい空気を少しずつ押し退けるように、カーテンの隙間から淡い光が伸びている。ここ最近、ほとんど眠っていない優は、椅子に座ったまま目を閉じていた。眠っているというより、ほんの一瞬だけ意識を落としている。どうしても、ひかるのそばを離れることができない。離れたくない。昨夜、沙羅が残していった言葉が、頭から消えなかった。――白い車だったそうね。あれは偶然だったのか。それとも。考えれば考えるほど、眠気は遠ざかっていった。そのときだった。微かな違和感に、優がはっと目を開けた。動いた。ひかるの指先が、確かに震えた。一瞬、見間違いかと思った。だが、もう一度。小さく、指が動く。「……ひかる?」優は椅子から身を乗り出した。胸の奥が激しく脈打つ。頼む。今度こそ。目を開けてくれ。次の瞬間。長い睫毛が、わずかに揺れた。ゆっくりと。本当にゆっくりと。瞼が開く。焦点の合わない瞳が天井を見つめ、やがて彷徨い、優を捉えた。数秒。時間が止まる。優は息をすることすら忘れていた。生きている。ひかるが、自分を見ている。それだけで、胸の奥に張り詰めていたものが一気に崩れそうになる。「……優……さん……?」掠れた声。たったそれだけの言葉だった。けれど。その声を聞いた瞬間、胸の奥が激しく揺れる。何度も夢に見た。もう一度、この声を聞きたいと願った。それなのに。実際に聞いた瞬間、嬉しさより先に怖さが込み上げてくる。また何かあったら。また、この目が閉じてしまったら。そんな恐怖を隠すように、優は静かに言った。「まだ無理するな」だが。ひかるの瞳に、突然恐怖が走った。視線が横へ滑る。窓際。そこに置かれていたのは、新しい花束。看護師が朝に替えたものだろう。白いガーベラ。その白さを見た瞬間。ひかるの表情が変わった。何かを思い出したように。いや。思い出したくないものを、無理やり見せられたように。「や……」喉が引き攣る。「やだ……」体が震え始める。「ひかる?」優が手を握る。だが、ひかるは怯えた子供のように、その手に縋りついた。肩が小刻みに震えている。「白……」かすれた声。「白が……来る……」その言葉に、優の背筋に冷たいものが走る。白。昨夜、沙羅
夜の病室は、不自然なほど静かだった。規則正しく上下する胸の動きが、久遠ひかるの命がまだここにあることを証明している。それを確認するたびに、藤崎優は胸の奥で息をついていた。生きている。それだけでいい。今は、それだけでいい。窓の外では、細い雨が降っていた。街灯に照らされた雨粒が、ゆっくりと線を引いて落ちていく。優は、ベッドの横に立っていた。眠るひかるは、驚くほど小さく見える。女優としてスクリーンに映る彼女は、あんなにも強く、大きな存在なのに――。今は、触れれば壊れてしまいそうだった。包帯の巻かれた額。点滴の管。かすかに上下する胸。事故の映像が、何度も脳裏をよぎる。白い車。雨。衝撃。そして、流血。もし、あのとき間に合っていなかったら。もし、ほんの少しでも搬送が遅れていたら。考えるだけで、喉が詰まる。社長としてなら、どんな危機にも冷静に対応できる。相手の出方を読み、先回りし、必要なら切り捨てる判断だってできる。だが。ひかるのことになると、その冷静さが簡単に崩れてしまう。失いたくない。ただ、その一つだけが頭の中を支配する。優は椅子に腰を下ろし、そっとひかるの指先に触れた。冷たい。思わず力を込める。「……スクリーンに、必ず戻ってこい」声に出した瞬間、自分でも驚くほど掠れていた。戻ってこい。女優として。そして――自分のいる、この世界へ。そんな願いを口にすることすら、今の自分には怖かった。ひかるが目を覚ますこと。笑うこと。また演技をすること。そのすべてが、当たり前ではない。だからこそ、祈るような気持ちでひかるを見ているしかなかった。そのときだった。コン、と小さな音がした。病室のドアが、静かに開く。優は振り返る。瞬間。胸の奥に、嫌な予感が走った。入ってきたのは、一人の女。長い黒髪。淡いグレーのコート。手には、白い百合の花束。雪城沙羅だった。一瞬、空気が変わる。温度が、数度下がったような感覚。どうしてここにいる?どうやって入った?面会は拒否している。警備も強化したはずだ。それなのに。沙羅は、何事もなかったかのように立っている。その余裕が、何よりも不気味だった。「……何度言えばわかる。面会拒否だ。しかも、面会時間は過ぎているはずだ」優の声は低い。怒鳴る必要な
雪城沙羅は、昔から負けることを知らない女だった。いや。正確には、負けないためなら、何でもしてきた女だった。デビュー当時。現場には、自分より遥かに格上の大女優たちが並んでいた。主演。看板。視聴率を持つ女たち。スタッフが彼女たちに向ける笑顔。共演者たちが交わす会話。現場に入った瞬間から、誰が中心なのかが分かる。その中で沙羅に与えられるのは、端役ばかりだった。台詞は数行。名前すら覚えられない役。撮影が終われば、誰の記憶にも残らない。悔しかった。唇を噛みしめた夜も、一度や二度ではない。自分だって、ここにいる。自分だって、もっとできる。そう叫びたかった。けれど、沙羅は泣かなかった。泣けば、負けたことになる。弱いと思われたら、そこで終わる。だから、代わりに観察した。誰が不安を抱えているのか、誰が年齢に怯えているのか、誰が椅子を奪われることを恐れているのか、誰が、自分より若い女優を怖がっているのか、沙羅は、誰よりも静かに人を見ていた。そして、静かに追い詰めた。直接ではない。噂。比較記事。週刊誌への小さな火種。ほんの少し、誰かの耳元に言葉を落とす。それだけで、人は勝手に疑い始める。自分は嫌われているのではないか、自分はもう必要とされていないのではないか、次に選ばれるのは、あの子ではないか。精神は、刃物よりも簡単に人を壊す。沙羅は、それを知っていた。だから、手を汚しているという感覚すらなかった。自分が直接何かをしたわけではない。そう思えば、眠ることもできた。やがて……。一人が引退した。また一人が休養に入った。そして気づけば。スポットライトは、沙羅だけを照らしていた。誰もが彼女を見る。誰もが彼女の名前を口にする。いつしか。……雪城沙羅の時代。そう呼ばれるようになった。その言葉を聞いたとき、沙羅は鏡の中の自分を見つめながら思った。やっと―――やっと、ここまで来た。誰にも奪わせない。この場所だけは。そう誓った。相手役の俳優たちも、いつしか同世代に変わっていた。その中に、藤崎優がいた。初めて共演したとき、沙羅は確信した。……この男は、自分と並ぶために生まれてきた。男らしくて、美しい。そして、野心がある。だが、どこか冷静。周囲に流されない。媚びない。そ
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、
朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直